チェッカーズの最後の曲は決めていた…「ダサい終わり方はしたくなかった」 作曲家・芹澤廣明氏が激白(夕刊フジ)

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【「少女A」作曲家激白 ヒット曲舞台裏】

 「ギザギザハートの子守唄」で1983年にデビューしたチェッカーズ。作曲家、芹澤廣明(70)の狙いとは裏腹に低調な滑り出しとなった。

 「デビュー前に3曲用意したんです。『涙のリクエスト』と『悲しくてジェラシー』を作ったところで、あと1曲は『ギザギザハート~』を出したんだけど、みんなひっくり返ったね」

 周囲の反対を押し切ってデビュー曲は「ギザギザハート~」になったが、「やっぱり『涙のリクエスト』のほうが普遍性があったの。イントロのアカペラがよかった。でも最初は歌が下手でどうやってハーモニーをつくるか、さんざん悩みましたが…」と振り返る。

 翌84年1月にリリースされた第2弾シングル「涙のリクエスト」が大ヒットとなり、快進撃が始まった。

 「レコード会社にいくと、みんなうれしそうに笑ってたもの。それをみて『これは売れたんだな』って実感してね」

 「もうね、“イロハニホヘト”でも売れるぞという感じでした」というほど“出せば売れる”が続いた。しかし、それが逆に次の道を模索するきっかけとなったというから不思議なものだ。

 「売れたら、後は下りるしかないでしょう。6作目のシングル『あの娘とスキャンダル』(85年3月)のころにはスムーズにいかなくなって。やっぱりネタも尽きますよ。バンドでアイドルで売れ線で続けるって難しい。僕自身はもう潮時かなとって思っていた。彼らも自分たちの曲をやりたくなるのは当然だしね。だから、ダサい終わり方はしたくなかったんだよね」

 アメリカの市場に挑戦したいという思いは、その頃に強まったという。「ただ、そのときはどうすればいいかも分からなかったから、結局30年近くかかったけど…」というが、その思いはチェッカーズのために書いた最後のシングルに、にじみ出ていた。

 それが、86年6月にリリースされた「Song for U.S.A.」だった。

 「チェッカーズの最後は、この曲って決めていたんです。この曲は、アメリカに行きたいって思っていた僕のことを、作詞家の売野雅勇さんに書いてもらったようなものです」

 売れっ子作曲家の活躍の場は、アニメにも広がっていく。それが「タッチ」だった。

 ■芹澤廣明(せりざわ・ひろあき) 作曲家。1948年生まれ、70歳。横浜市出身。ミュージシャンとしてバンドデビューを果たすも、ヒット曲に恵まれず、75年に解散。作曲家としては「少女A」「涙のリクエスト」「タッチ」などヒット曲多数。

 5月24日、米ニュージャージー州のレーベルから、シングル「ライト・イット・アップ!」で歌手デビューを果たす。

いろんな口コミを見てみたけど
  ・実際に体験した人の口コミは信頼できる
  ・やらずに騒いでる人の口コミは基本的に悪評を書いている
ような気がします。

違うかな?

わたしが気になっているのはコレ・・・

どれだけ簡単に効果がでるかは、
口コミからはわからないけど、

【短期間】といっても
さすがに3日間~2週間って・・・
かなり怪しい感じがするのは私だけかな

けど本当に効果が出るならやってみたい★

事実、ずーっと悩んでるわけだし
早くコンプレックス解消したいよ。

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